野田文七のブログ

東方Projectの小説書いてます。劇団文七団長。
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知的障害者はいなくなった方がいいのか

これ、実生活で感じる本音と、一歩引いたときの建前と、両方考える必要がありますよね。

まず端的に言って、多くの知的障害者の容貌は醜いです。

井上雄彦「リアル」では、魅力的な身体障害者が多数登場しますね。あれは彼らに感情や知性があるため、読んでいる僕らが容易に感情移入できるためです。

知的障害者はそうは行きません。

養護学校との交流授業や、街中でじかに見かける彼らを見れば、それは一目瞭然です。

全員が、とはもちろん言いません。

僕の伯母の夫の妹の子は知的障害者ですが、菩薩のような顔をしており、人畜無害です。

また、我が家の200メートル隣に住むヨッちゃんは、僕と同い年で小学校の入学式に向こうの父母と一緒に歩いて行った記憶がありますが、微笑みを絶やさぬ女性で、最近は障害者専用の工場で働いている模様。

ただ、顔を見れば「足りない」と一発でわかります。

僕は、彼らに対しては穏やかな気持ちになりますが、もっと重度の人相手、しかもまったくの他人では、そもそも人間とは思えない確率は高いです。

ここで無理して「いや、誰にでも生きる権利がある」とかやりだすから話が面倒になるんです。

醜いと感じてしまう感性はこれはもう仕方ないのであって、それでも建前に従って保護をするんだ、という諦めの気持ちが肝心です。

地震やテロで死んだ人たちは、聖人君子扱いされて新聞で華々しく弔われます。

読む人々もそれで涙したりします。

今回、メディアはそれはしませんでした。賢明な判断でしょう。障害者差別の巻き添えを警戒する身内の要請もあったようですが、それだけではないでしょう。

読者は涙を流したいのに、新聞にギョッとする容貌の写真が立て続けに並べられれば、流そうとする涙も乾いてしまうものです。

これはもう仕方ない。

ここで無理して倫理的に「けしからん」と言ったって仕方ない。

 

この本音と建前の相克がまず一つ。

もう一つ面倒なのは、ボーダーの引き方です。

僕の親族は医者から精神疾患の診断を下され、おかげで国から金をもらって生きています。

ではその親族に生きる価値はないのでしょうか?

まあ、あるんですけど、仮に「ない」としましょう。

じゃあ年金だけで生きている老人に生きる価値はないのでしょうか?

これも、あるんですが、実験的に「ない」と考えてみましょう。

年金なんてケチくさいこと言わず、もっと範囲を広げましょう。

自力で生きていけない人たち、つまり国から補助金をもらって赤字経営している自営業者や、経常利益がマイナスの会社で働いているサラリーマンは、生きる価値はないのでしょうか?

国が作ってくれた道路や水道、電気、郵便、警察、消防、自衛隊に頼っている人たちは、生きる価値はないのでしょうか?

「弱者」とは誰か?

それが、他者に頼らないと生きていけない者であるなら、それは全員です。

 

いやいやいやいやそんな極端なこと言うなよwww と言われそうなのでこの辺でやめます。

 

知的障害者は醜いし、こっちになんの愛想も寄越さない、はっきり言ってキモイ、自分にとってなんの価値もない人間だ。

そう判断することは、合理的です。おそらく事実です。

顔も知らない名前も知らない知的障害者がどうなろうと僕の知ったことじゃありません。

我々は、イラクやシリアで毎日民間人が何百人木っ端微塵になろうと、バングラデッシュで7人死んだ方を重く見ます。それでいいんです。普通です。そこで倫理を持ち出しても仕方ない。

つまり何が言いたいかというと、誰かが誰かを不快に思うのは勝手だということです。

ただしその理由は、社会的に役に立たないだとか、むしろいない方がみんな幸せだろうとか、いちいち見苦しく他者のせいにしてはいけません。

私が、ほかならぬこの私が、そいつを不快に思っている、とまで明確に言い切らなくてはなりません。

「どうして、社会にとって価値のない人をいつまでも生かすんだろう……」とか甘えたことを言ってはいけません。どうせそんなこと言っている当人も、別に社会にとってそんなたいした価値はありません。健常者だろうと障害者だろうと、一人二人死んだくらいでは社会になんの影響も与えません。近しい人が悲しむだけです。

だからこそ、人権というフィクションは大事なんです。

嘘でもなんでもいいから、社会構成員みんなで、優しい社会というフィクションを守り、盛り立てていく。それが一番、結果的にラクになるんじゃないかと思います。

僕がよくないな、と思うのは、どうも世相が(って新聞とネットぐらいですが)あくまでフィクションを本当のこととして示していることです。いくらなんでもそれは説得力がなさすぎる。「みんな同じ人間だ」なんて言われたって、んなわけあるか、と誰だって思うでしょう。「みんな同じ人間だ」というフィクションはとても大事だから、各自自分ができる範囲内でそれを強化していこう、と説くべきでしょう。

フィクションをフィクションだとみなしてしまったら効果がないんじゃないか? と言われそうです。

大丈夫じゃないですかね。

人間は、それを嘘と見なしつつも、その嘘に耽溺できる生き物です。信仰しかり、物語しかり。

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うん。お前死ねよw おんなじこと言ってるようだよねww バーカ
| L | 2017/02/16 9:21 PM |
鴎外の頃の「かのやうに」は確かに知識人の振る舞いとしてあったけど、現在のそれはブラッシュアップして、現状のシステムを機能不全に陥らせないままに次のシステムを模索したりいざ次が来たとときに適応したりするための意識の待機状態と見做されるかな。他のシステムを憎悪するのでも冷笑するのでもなく、温存しておくための。
| N.S@木浦 | 2016/07/30 8:16 AM |
んー自分でも上記の最後の方ちょっと苦しいなと思いながら書いてはいた。
フィクションだと認識することと、真に受けることとは、ほんとうは両立しないけどそこであえて理性を一時的に殺してうまいこと両立しよう、と僕は主張しているわけだけど、それを全員にやらせることができるのかと聞かれると苦しい。
ただそうなると、フィクションを認識している人たちと、それに操作される大衆、という伝統的な図式を認めてしまうことになる。いくら僕でも、無条件に「俺は大衆じゃない」と言明していいものかなという戸惑いはある。(実際はそう思ってはいるけど)

人はみんな平等だ(そしてその裏返しに過ぎない、みんな違ってみんな良い)、というフィクションが、耐用年数が過ぎているのは明らかなので、別のフィクションが必要だとは思う。
それが何かわかってりゃ誰も苦労しないけど。ざっと見渡した感じだと、天皇陛下関連が一番汎用性が高くて作りやすそう。
| 野田 | 2016/07/30 6:49 AM |
嘘だとわかっていてもそれが有用ならそれに合せて振る舞うのがよい、ってのは鴎外(文字化け回避)の「かのやうに」でも言われてるね。鴎外の頃はそれは「学問」をした人、知識人の振る舞いとしてあったけど、現在はそれを可能とする人の絶対数は増えてる。でも、君の言うようには「人間」一般の態度にはなり得ないんじゃないかな。そもそも、あるシステムが有用に機能するためには一定数以上の人間が真に受けるだけの魅力やもっともらしさが必要のはず。物語なのか宗教なのか社会制度なのかによってその強度は変わってくるだろうけど、簡単には廃棄できないものでなけれは、フィクションとしての実効力もなくなると思うよ。同時に、システムの耐用年数が過ぎて硬直化した時に、改修やら交換やらをできるように「かのやうに」という態度で運用していくことも同じくらい必要だ。
| N.S@木浦 | 2016/07/29 10:22 PM |