野田文七のブログ

東方Projectの小説書いてます。劇団文七団長。
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原作の取捨選択

聖書は膨大なテキスト量があり、互いに矛盾することがあちこちに書かれています。

人を殺すなと言っておきながら殺したり、盗むなと言いつつ盗みます。許せと言いつつ許しません。

もちろん、神学論争をやれば、実はすべて一貫している、と言い張ることも可能なのでしょう。

しかしまあ、もともとが多様なテキストを集めものでしょうから、矛盾がない方がおかしいのです。

にもかかわらず、いわゆるキリスト教文明圏と言われる地域が、明確に存在しています。

こんなに矛盾しまくっているのに、人心をまとめることができるのです。

つまり、些細な違いはどうでもいいんですね。

聖書そのものというよりは、聖書に基づいて作られた共同体における生活が、人々の心に刻まれ、長い年月を経て一大文化圏を形成したのでしょう。

 

東方もそのようなものでしょう。

と、前置きが手間取りました。

そしてもう結論が出て、まもなく終わりです。

東方の各作品を照らし合わせると、矛盾や違和感に満ち満ちています。

神学論争……と言って語弊があれば「丹念な解釈」により、ひとまず一貫性を出そうと思えば出せます。

違和感を覚えるのはきちんと原典を読み込んでいないからであって、丁寧に読み解いていけばZUNさんの示す世界観には一部の隙もない。

そのように主張することも、不可能ではありません。

十年前や二十年前のZUNさんの片言隻句を捉えて、この頃から彼はこう言っているから、基本的な枠組みはまったく揺らいでいないのだ、と主張できなくもないです。

不可能ではありませんしできなくもないですが、率直に言って、それでは腑に落ちないことが多すぎます。

東方の魅力、東方がこれほど大きくなった理由とは、そのような一貫した論理性にのみあるわけではないでしょう。

矛盾はあっていいと思います。

取捨選択もまた、他の人たちの手に委ねられていいと思います。

もちろんそこでは、面白いか、面白くないか、というシビアな視線に晒されてしまいますが。

 

こいつとこいつをこうしたい。しかしそれにはこの設定で齟齬が生じる。しかし別の個所で言及している設定に従えば齟齬は生じない。こんなときは後者を優先させるのが当たり前です。前者はないものとして扱う。

融通無碍にして魅力的なこの世界観を、無理に一元的な枠組みに押し込めてしまう必要はないでしょう。

| - | 20:48 | comments(4) | - |
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| - | 20:48 | - | - |
余人がやりたがらないけど誰かがやらねばならないような、おもにアカデミズムが担っているものの成果物って、図書館とか新聞とかNHKのニュースとかで見ることが多いから、つい道路や公園と一緒で、タダと思ってしまうんだよね。これは我ながら自覚が不足しがちだとは思う。
大学図書館とか、各省庁のホームページとか、恐ろしいほどの情報がストックされているんだけど、それが当たり前になってるもんなぁ。
実際はちゃんと学費や税金から、大学や官僚にきちんと報酬として与えられてはいるんだろうけど、心理的な感謝の念が持ちづらい構造になっているとは思う。

コンビニでスナック菓子みたいに売られている俗流の歴史・宗教本の方が、多くの人にすんなり頭に入るように設計されており、その点では営業努力をきちんとしている。
そうすると、消費者が、読ませる意欲に乏しい分厚い本よりはスナック本を好むことを否定はできない。
アカデミズムとスナックじゃ、役割が違うと言ってしまえばそれまでだけど。

まあ、本当にみんながみんなスナック本しか読まなくなってしまえば国家の危機だが、そこまで日本が知的に衰退することを想像するのは、ファンタジーのレベルだろう。

結局、何事も中庸という結論になってしまうんだけど。
| 野田 | 2016/09/28 4:50 PM |
そう。予め有用か無用かは分からんから、やってみるしかないんだよね。そういうのは消耗が気持ちいいこっちの輩に任せてもらって、テキスト群から引っ張り出したコスモスとカオスを、それなりの敬意(と望むらくはそれなりの対価)を払って上手に利用してくれれば、そこから生まれたテキスト群にまた没頭して……という好循環に入れるんだけどな。
| N.S@木浦 | 2016/09/28 9:50 AM |
カオスでいいじゃん、という言い分の中には、無駄な消耗戦を避けたいという本音、つまり生活の知恵という側面がある。
ただ、実際には、不毛な議論と有用な議論が存在する以上、議論そのものを否定することはよくない、というのは一応わかる。つまり、不毛な議論を恐れてはならない、と。
ただ、一個人が、肌の合わない議論に延々と付き合う必要はないはずだ。
学究の徒となると話が違ってきて、異なる意見には無視ではなく反駁が要求されるのだろうけれど。

宗教を山に譬えるやり方は、わかりやすくていいよね。
登り道は違っていても、たどりつく真実は同じだ、と。
これは、僕にもピンと来る。
これなら悪しき相対主義を駆逐できる。
ただ、容易に排他的にもなりうるから、なかなかおおっぴらに称揚することが難しい譬えだ。

なお、僕は自分の書くものが唯一無二の一貫した東方だと思っているが、そう思っている人間はたぶんたいして珍しくない。
| 野田 | 2016/09/27 10:09 PM |
聖書を不摩の大典として緻密に読んでいく情熱が、同時に文献学的手法で分析的に読む精神を養ってきたことを考えると、最初からカオスとして捉えるのではなく、そこにコスモスを見出そうという行為が結果としてカオスを発見しているとも言える。一貫した物語への希求なしには、自由な取捨選択もまた、機能しないのかもしれないな。
| N.S@木浦 | 2016/09/27 9:36 PM |