野田文七のブログ

東方Projectの小説書いてます。劇団文七団長。
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泥船遺跡(RF氏著)「日本神話で分かる東方Project」

〜言い過ぎかもしれませんが私は、「東方は古事記の二次創作」くらいに思っています〜

(本文より)

 

冒頭の「はじめに」ですでに著者の言わんとしていることは明白です。
古事記の中で、特に東方の要素が強いエピソードを選択し、わかりやすく解説しています。
僕も、執筆参考のため古事記については何冊か本を読み、なんとなくの大まかなイメージは把握していますが、これほど巧く他人に説明することはできません。
読んでいて引っかかったり、思わず突っ込みたくなるようなエピソードには、ほぼ漏れなくきっちり現代の感性でツッコミを入れています。
無駄口を叩かず、あっさりとして、かつ機知に富んだツッコミです。
だからといって古代の価値観を馬鹿にするわけでもなく、でも今とは全然違うよね、という極めて冷静なスタンスです。
著者は恐ろしく頭がキレる人ですね、たぶん。
表題にもある通り、東方を神棚に祀り上げるのではなく、神話時代から連綿と続く物語の系譜に位置付けている、その著者の見識に、僕は非常に共感します。
我々現代人は、ともすれば、著作権という、本来は飯の種を確保するという非常に切実でシビアな必要性から生まれ出た便宜的な概念を、何か生来のものであると勘違いしてしまい、ついついオリジナルというものを、何か大層なものとして崇め奉ってしまう悪癖があります。
「私の書くものはオリジナルです」なんて恥ずかしいことを、つい平気で言っちゃうんですね。
便宜的に、マーケットの分類的に、オリジナルという概念を使うことは構いません。
ただ、それと、創作とは自分の中にあるオリジナルなものを表現する崇高な行為だ、というオリジナル至上主義を奉ずることは、また別のことだと思います。
人間とは一人一人が個人として生きているだけで価値がある、という優しい嘘は、社会を円滑に回していくために役に立っているとは僕も思いますが、それがなんだか変な風に、個人のかけがえのないオリジナルなものにはすべからく価値がある、という屈折した信仰に行きついちゃったんでしょうね。
あえて極端なこと言いますが、すべてのベースを否定してオリジナルにこだわるのなら、パンツ一枚はけないし、そもそも日本語を使えないんですけどね。物語においてもっとも大事な、感情の揺れや、人間の真情すら、書けません。
古事記にしろ、東方にしろ、それのみで独立しているのではなく、過去から脈々と伝えられてきた物語が、水面上にぽっかりと泡として浮き出るような、そういった現象だと思います。
もちろん、稀有な泡であることは今更言うまでもありませんが。
ちょっと話がずれましたが、この本を言及する上で決して外せないのが、その見やすさです。
これまで見てきた東方同人誌の中で、ぶっちぎりで一番見やすいです。
とはいっても、僕もそれほど多くの東方同人誌を見てきたわけではありませんし、そもそも一度見たものを忘れている可能性もあるので、あまり頼れる記憶ではないかもしれませんが。
とにかく、見やすい、読みやすい、わかりやすい、簡潔、と隙が見当たりません。
いったいどれほど文字組みにリソースを注いだのだろうか、と感じ入ります。
これほどまでに見た目が整理されていると、読んでいるこちらの頭の中までなんとなく整理されていくような気になります。
石長姫が今、妖怪の山で何を思っているのか、ということ。
そして、八雲紫と大国主の類似性について。
この二つは、今後の執筆に役立ちそうなので、その点からも大変ためになった本でした。
| - | 20:08 | comments(3) | - |
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| - | 20:08 | - | - |
「事実」としての先後関係はもちろんあるんだろうけど、一部の学者を除けば我々は何らかのものを読んでそう納得しているだけなのだから、別の納得の仕方を徒に退けられないというのもある。古事記のような突然多くの人間の目の前に現れたテキストに、納得させられた前例があるしね。テキストが発見されるのが旧家の蔵でもベイエリアの展示場でも、それは本質的なことではないわけだ。
前座というのは言い得て妙だね。先行するテキストを真のテキストの前触れだとか予兆だとか尊重したり、逆に不完全な断片だと批判したりして、世界観に取り込むのはよくある手法だしね。文学研究的に引用関係としか思えなくても。経典の宗教なんて古株から大本以降の新興宗教、ラブクラフト神話とクトゥルフ神話の関係なんかもそうなるだろうな。
| N.S@木浦 | 2016/10/14 9:03 AM |
ハハハ何を極端なことを……と言いたいのだが、旧事本紀の権威が勝っていた時期すらあると言われては、あながち極論とも言えないね。
親・子、正・異関係って、時間の後先すら関係ないってことなのか。つまり、時期として先に出てきてもそれが必ずしも親や正ではないと?
あとから出てきたものの方が正しくて、先に出たものはその前座としての異本に過ぎないと、そういう理屈になるのかな。
| 野田 | 2016/10/13 11:41 PM |
古事記を考える上でけっこう大切なのは、定期的に宮中で講義が催されていた日本書紀と違って、中世まで殆ど読まれていなかったということなんだよね。そもそも怪しい神話の書物で、宣長が古事記伝で高評価するまでは、別段特権的な地位にあったわけじゃない。下手したら偽書である先代旧事本紀の方が権威があったくらいで。つまり、正典に対する異本と言ってもいい。しかも現在の二次創作のように親・子関係、正・異関係が決まっているわけじゃなく、時代を経ると逆転したりもする。本文批評的な作業で「オリジナル」を決めることはできるけど、読まれ方という観点を導入するなら、それは容易に逆転してしまう。
何が言いたいのかと言えば、近代主義的な「オリジナル信仰」を廃棄することを躊躇わないのであれば冒頭の引用は寧ろ一歩進めて「古事記は東方の異本である」とまで言うべきなんだと思うよ。
| N.S@木浦 | 2016/10/13 8:40 PM |